株式投資のマーケティング-[書評] ネット株の心理学 小幡 績
人間の行動は、感情に極端に左右され易い。特に、ネガティブな感情による影響は強い。
株で儲けた金は、キレイな金とは扱われないが、金は金である。
金に色なんかついていない。
株式投資もいつ誰が買うのか、マーケティングの要素が必要不可欠だ。
個人が投資でプロを出し抜けるということはない。彼らに比べて個人投資家が優位に立てることはあまりなく、プロに比べてより企業の実態を見抜き、より賢い投資ができるとは思えません。
それは、時間的要因・資金的な要因もあるし、知識的要因もある。
実際わたしのポートフェリオでは、投資信託はおおむねプラスの収益を上げている。
投資信託のいい点は、自分でやる場合よりも価格が気にならない点にある。
いい意味で、他人任せなのだ。
わたしが株を買うと、当然一時的には上がることもあるし、また下がることもある。
このランダム運動が、気になってしょうがなくなる。
仕事から帰ってきて、まず株価をチェックするというような、無駄な時間が多くなる。
最初のうちは、目新しさもあって楽しいが、だんだんと時間を無駄にしていることに気づく。
お金は目的ではなく、手段ということを忘れてはならない。
だったら、自動的に積み立てる投資信託の方が放っておけるので楽である。
めんどくさいことは、お金を払って人にやってもらった方がいい。
なんでも自分でやる必要はないのだ。
お金よりも時間の方が、はるかに大切である。
株式投資は人気投票だから、注目されなければ株価が変動するということはありえない。配当がよくて優良企業だからという理由だけで投資しては絶対にいけないのです。
優良企業なら、いつかは注目されて株価が上がるかもしれないが、そのいつかが、100年後では意味がない。
株を買ったことのある人なら分かると思うが、株は買うことよりも売ることの方が難しい。
どうしても欲が出てきてしまうので、売るタイミングを逃してしまう。
保有すると心理的に価値が上がってしまうのだ。
配当はもらえるとうれしいが、たいした金額ではない。
バフェット先生も言うように、無配当で自社株買いをするとか、もっと企業として有益な方法はいくらでもある。しかしながら、あまりこの自社株買いを見ることはない。
多くの株主は、無配当を嫌う。これは目先の金に目が眩んでいるからである。
そして、株主の中には配当を決める会社役員もはいっているから、無配当ということはなおさら難しい。
株主のことを本当に考えているなら、余剰金を配当にまわすのは止めていただきたい。
現在の日本市場は、公平とは言えない。誰がこの株を将来買ってくれるのか。いつごろ、いくらくらいで買ってくれるのか。
日本企業の買収に対して、国が過剰に関与しては外国人投資家にとって不利である。
市場経済は、誰に対しても公平でなければ、機能しない。
国の過干渉で、外国人投資家にとって魅力が薄くなっているのが現状だろう。
これで、値段が下がっているのなら、これはこれで買い時である。
しかしながら、いつ外国人投資家が戻ってきてくれるだろうか?
他の投資に資産を移してしまっているかもしれない。
現在で言えば、石油や穀物だろう。
スタグフレーションとはいわないが、インフレ気味である。
価格が上がり過ぎている。
これはただのブームであって、誰が操作できるわけでもなく、単なる流行の問題である。
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美しさとは何か?-[書評] 猫の建築家 森 博嗣
猫が静止して、物事を眺めていることがある。
深く、見るともなく見ているあの視線である。
著者は、そんなところから、「猫の美学」を着想したのかもしれない。
文章は軽く、内容はあるような・ないような、詩的な感じ。
イラストには、もう少しバリエーションがあってもいいような気がした。
機能がないのに形式的に残っているものは、意外と多い。ただ、造られたままの形ではなく、
造られたときの機能を果たせなくなったものが、
いくつか残っているだけだ。
But there remained things
that had lost their original forms,
that had lost their functions.
スーツの袖のボタンなんかは、ただの飾りだ。
あれは、その昔ナポレオンが遠征したときに、寒冷地で兵士たちが袖口で鼻水を拭くのを見て、止めさせるために付けたって話を、どこかで聞いた。
それから付けられたとしたら、我々はいまだにナポレオンから無意識に教育されていることになる。
ナポレオンは、偉大である。
機能がないのに残っているものは、物だけではない。
動物の臓器には、そういった類のものが多い。
人間の盲腸なんかはまさにそれだし、光の届かない深海でも、以前眼だった器官のある動物は多い。
これは、『保険』なのだ。
いつか環境が変わって、必要になることがあるかもしれない。
生物とは、可能性を残しておくものなのである。
イチローのバッティング理論と同じだ。
ここの英語訳にいささか疑問を感じる。この謙虚さは、「猫」の羨望である。
All cats admire their modesty.
ここは、「All cats」じゃなく、ただの「Cats」ではないかと思う。
この本の表題が、『猫の建築家』であるから、先行条件として「猫」、猫の中の「建築家」ということになる。
すなわち、猫すべてを指すのではなく、猫の中の建築家を指すのだから、もっと丁寧に書けば「cats of architect」ではないかと思う。
しかも「」で猫をくくっているのだから、ただの猫だとは考えられない。
ただの、屁理屈だと思ってください。
しかしながら、英語の文章としては面白い。
こういう文章を英語のテキストとして使ったら、少し暗記する気にもなる。
暗記教育は、現在、嫌われているようだが、学問の基礎は暗記にある。
暗記による、人マネから入るのが、王道なのだ。
まったく新しいものを個人で生み出せるということは、極々稀なことだ。
美しいということは、それだけで才能であり、利点である。「美」は、「形」なのか「機能」なのか、それとも「猫」なのか。
What is the reality of "beauty", "form", or"cat"?
美人薄命と言うが、それは間違いだ。
美人の薄命だけが物語になるので、不美人の薄命が目立たないだけである。
「美しさ」という観点での選択は、誰もが日常的に行っている。
誰もが、自分にとっての「美しい」方を選択している。
それらの選択が人によって違うから、人生が多様化するのである。
例えば、わたしの身近なことで言えば、本屋に行ったときに、わたしは本の包装にこだわる。
内容が気になる本でも、包装が気に食わない本は買わない。
包装にこだわれない作者の作品など、読む気にならないし、見る気もしなくなる。
こだわりが重要なのだ。
もっと、精神的な例をあげれば、病気との闘い方にも美学が表れる。
闘病するか・静観するかという選択である。
確実に治る見込みのある病気なら、誰でも戦うだろう。
しかしながら、癌の末期だったらどうだろう?
放射線・抗癌剤治療で戦い続けるだろうか?、それとも生活の質を下げない最小限の治療だけで残りの人生を癌とともに生活するだろうか?
この選択はどちらが正しいということはない。
どちらも人生を生きるという意味では、正しい。
ただ、あまりにも前者の選択をする人が多すぎる。これは、メディアの影響が大きいのだろう。
前者が物語りになり、後者が物語りにならないというだけであるのにもかかわらず。
前者が「戦い」で、後者が「逃げ」だという考え方は、間違っている。
こういうニュースもある。
新薬 延命効果わずか
生活の質を下げてまでする治療に意味があるのかを、今考えている。
これは、個人の美学の問題である。
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アメリカ中の医大に落ち、南米のとある国の大学の医大生になった主人公のドタバタ・コメディ。
点数が君の人生を左右するのか?
南米のとある国の医大が舞台となっているので、当然テストがある。
テストは結構難しいらしい。
主人公はテストに向けて猛勉強をする。
前日にテストを行うことが発表されたから、否応なく、一夜漬けになる。
しかし、主人公は試験当日、テストの席を間違えて、欠席扱いになってしまう。
ひどいと思い、学長にかけあうが聞く耳をもたない。
あげく、学長はこう言い放つ、「点数が君の人生を左右するのか?」。
このシーンは、映画の中では学長のひどい人間性を強調するシーンなんだけれど、わたしはひどい人間だとは思わなかった。
じつは、わたしも自分の小学校の先生から前に同じような言葉を言われたことがあった。
先生が、通知表を渡すときにクラスの全員に言った。
「通知表に書かれていることは、単に学校での評価であって、あなたたちの全てを表すものではない。気にする必要はない」
先生はそう言った。
先生は、学校教育の限界について言っていたのかもしれないし、ただ単に通知表のことについて親から文句を言われないように、予防線を張っただけかもしれない。
でもその話を聞いてから、わたしは他人のつける評価を気にしなくなった。
学校のテストについても、自分の『仕事』はテストを受けることで、採点し評価するのはわたしの仕事ではないと考えるようになった。
だから、自己採点もほとんどしたことがない。
テストの結果は結果としてうけとめればいい。それがその人の人間性全てを表しているわけではなく、極々限られた、一部分しか表せていないことに気づいたほうがいい。
勉強も面白くなければ意味がない
医師になるわけだから、解剖学を学ばなくてはならない。
しかし、映画にでてく大学では、死体が高いので、解剖の実習を一組5分しかやってもらえない。
そこで生徒たちは、死体を調達しに出かける。もちろん解剖の実習をするためである。
これは、コメディではあるが、勉強の本質をついている。
勉強の本質は、自主性にある。
誰かの話を聞いて『勉強になる』というのは、本物ではない。
勉強していて楽しいときは、自主性が伴っていることに、社会人になると気がつくことがある。
教室で受ける授業は、どうしても受身・お客さんなのだ。
だから、面白さが欠けてしまう。
映画に出てくる彼等は、勉強したいのだ。
死体がなければ、死体を調達してまで解剖がしたい。
それぐらい、勉強への渇望が強烈なのだ。
自主性が伴うものならば、それは本当に自分がしたいことであり、面白い勉強なのだ。
そういう勉強ならば、一時的な点数など気にする必要はない。
そもそも、誰かの評価や承認を気にするようなものでもない。

一生懸命努力すれば夢はかなう、なんてことはない
この映画の生徒たちは、医師になりたくてそれに邁進している。
希望と現実を一致させるために、努力をしている。
しかしながら、これは映画であり、フィクションだ。
現実世界で、希望と現実を一致させることは難しい。
それが職業であると、さらにたちが悪い。
職業は、能力以外に縁というファクターも重要である。
そもそも、職業は需要があって成り立つ。
需要がなければ、仕事は発生しないのだ。
仕事とは、どれも穴を埋めるような作業だ。誰かが、どこかの穴を埋めている。
それがたまたま、薬剤師であったり、総理大臣であったり、芸人であったりするだけなのだ。
それが、縁なのんだ。
穴を埋める作業だから、そもそも穴が開いていなければ、埋めることができない。
そこが難しいところだ。縁という穴が開いていなければ、需要は発生しないのだ。
それを知っているくせに、大人は子供に『将来の夢』というかたちで職業選択を迫る。
まるで、努力すれば、必ずなれるようなキレイごとを言う。
世の中、努力だけではどうにもならないことの方が多い。
そして、努力をしてもたかが知れていることは、明白である。
あなたも・わたしも努力をしたが、所詮この程度なのだ。
努力という言葉は、ニコニコしながら近寄ってくるので気をつけたほうがいい。







