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131023 読書メモ 「〈子ども〉のための哲学」というのはウソ  



 哲学というものは、世の中にうまく適合できいない人の逃げ道なのではないかと考えていたら、以外にも著者も同じようなことを考えていた。私の中学生のときの考察もまんざらではなかったようだ。
哲学によって救われなかった私は、その後世界の4大宗教にもはしったが、そこにも救いはなかった。

 あのときの中学生の私は、自分自身で作り上げたどっぷりとした泥沼のような世界にはまっていた。
何のことはない世界は自分の考え方次第だとわかったのは、高校生になってシェイクスピアを読んだ時かもしれない。
そう、世界は舞台なのだと気がついたのだ。
長い中二病だった。

 今でも現実とうまく折り合いを付けられないことがある。
コレはもうしょうがないことだ。私はそういう人間なのだろう。
こういう気分の時に他の人はどうやり過ごすのだろう。歌でも聴くのだろうか?

 たぶん、こういう表現のしようのない気分がわからない人間にとっては、哲学は人生に深みを与えてくれるものなのかもしれない。
この気分のわかる人間にとっては、哲学は水中から浮かぶための唯一の手段なのだけれども…。



独我論とは「自分だけが存在し自分以外のものは(自分の心の中にしか)存在しない」という主張である。P30


上記の世界は考え方次第というもの、突き詰めれば独我論なんだけれども、それでいいと思う。
自己中心的という言葉があるが、最終的にはそれでいいと思う。
自分の人生で、自分が中心で何が悪いのか?

他人についていえるすべてのことは、結局のところ、他人がどう思っているかについて自分がどう思っているか、だけである。P37


今週のトリコでもあったが、人にはミラーニューロンという神経組織があるらしい。確かおでこあたりに。
コレによって人は他人の感情を理解するらしい。理解とは言え、精度の高い誤解だが。
自分だったらどう感じるかという感覚でしか、人は相手を理解することはできない。
それは完全な理解であるはずもなく、高精度の誤解だ。突き詰めればどこかに一致しないものが出てくるだろう。
完全な相互理解などができたら、それはニュータイプという名のエスパーだ。
たぶんフィン・ファンネルも使える。

利己的でない、真に愛情深い親なら、子どもを道徳的に育てたりはせず、子ども自身に有利な範囲で道徳的に見えるようにふるまうように育てるだろうP155


道徳というのは認めよう、素敵ふるまいだ。
ただ、そうやって振る舞うやつを胡散臭く感じるてしまう感情もある。
紳士的に行きたいとは思うけれども、道徳的に生きたいとは思わない。なんか生臭そうだし、気味が悪い。

道徳的に善いことはそれをする当人にとって好いことであり、道徳的に悪いことはそれをする当人にとって嫌なことである、という〈うそ〉を、〈ほんとう〉のように見せかけることにつきる。P181


道徳をウソだと言えないぐらいに現代人はネジ曲がっているのに、それを認められない人たちがいる。
学校の先生なんかにはそういう人間が多いように感じる。
道徳は宗教と一緒だ。

実際になされる行為に心がともなわなければならいという規則はどこかいかがわしい、とぼくは感じた。P190


哲学的ゾンビというものだけれど、心に実態はない。

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2013/10/24 22:57 | edit

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