光あるうちに光の中を歩め トルストイ
![]() | 光あるうち光の中を歩め (1952/06) トルストイ、原 久一郎 他 商品詳細を見る |
ある男が、信仰に目覚めるまでを描いた物語。
わたしはクリスチャンじゃないから、神への信仰とかってところは正直ちょっとひいて客観的になってしまう。
だから、いまいち主人公のユリウスに感情移入できなかった。
特に最後の最後で信仰に目覚めるんだけれど、そこはもうほとんど、「そういうもんかな…」と言う程度のもので、しょうもないとも思った。
信仰をもっている人は、この本でその信仰がより強固なものになるのだろう。
ユリウスの友人で、先に信仰に目覚めてしまったパンフィリウスなんてもうほとんど原理主義者としか思えなかった。
なんにでも『遊び』というものが必要で、あんまり完璧にしないほうがいいと思う。
安全余裕度みたいな考え方を心にも適応すればいいと思うんだけれど。
しかしながら、さすがのトルストイと言うだけあって(誰が言った?)、考える箇所がたくさんある。
すべての肉体的満足は、必ずこうしたものである。満足を枯渇させまいと思ったら、絶えずそれを強化してゆかねばならない。
これは、薬に耐性ができてしまう機序と似ている。
肉体的・精神的作用は全て伝達で説明できる。
すなわち、伝達信号にたいして、化学物質のレベルで鈍感になるのだ。
過去に経験したものに対していつも新鮮に反応していたら、神経がまいってしまう。
これは、細胞レベルでの学習というものだと思う。良い悪いは別にして。
「これ以上のことは僕は何も望みません。いや、それどころか、僕はたいての場合、はたしてこれでよいのだろうかという懐疑の気持、何だか不正をやっているような意識をおぼえるくらいです。いったい何の廉で僕はこんな宏大な幸福を恵まれているのだろう、という気持ちですね」とにこにこしながらパンフィリウスは言った。
この「にこにこしながら」ってところに気持ち悪さを覚える。
幸福っていうのは、いまいちよく分からない。
金がたくさんあれば幸福なんだろうか、何か信じるものがあれば幸福なのだろうか、分からない。
少なくとも、金がないのは不幸だし、信じるもの(神さんじゃなくてもね)が無いというのも不幸なんだろう。
ボブ・ディランを神様って言っていた映画もあったっけ…。
肉体の死に対して無力な不幸な者が、いかに苦労するだろうと考えると、恐怖にとらえられる。何しろ一生涯の間に、あれだけの心配と緊張した努力とをもって獲得したすべての物を、死と共に失うのですからね。
これを読んだとき、衝撃を覚えた。
わたしが死んだとき、わたしの獲得したものは無にかえるのだと思った。
そう考えると、世の中に何かを残せた人は幸せだと思う。
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