パパの育児日記 ホーム » 読書メモ »[書評] ものぐさ精神分析 岸田 透

[書評] ものぐさ精神分析 岸田 透  


ものぐさ精神分析 (中公文庫)
岸田 秀
中央公論社 ( 1996-01 )
ISBN: 9784122025189
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

精神分析なので、具体的な例をあげて性格を分類していく話かと思ったらぜんぜん違った。
基本的に、現在受け入れられている社会性を全部否定しています。
解説にも書いてありますが、逆三角形のかたちで論理展開していきます。




日本国民の精神分裂病的素質をつくったのは、一八五三年のペリー来航の事件である。(P14)

外的自己と内的自己とは誰にでも常に存在しているのではないか。建前と本音という形で。


屈辱的開国を不本意ながら強制されたために人格分裂を起こし、自己喪失の危険にさらされた日本国民は、その恐怖から逃れるためのつっかえ棒を必要としたのであり、天皇制はまさにそのための好都合なつっかえ棒に向いていた。

天皇は日本国民の内的自己を背負っている。言わば内的自己の化身である。


日本人は、おのれを恐ろしい攻撃者である欧米人と同一視して日本を欧米化し、朝鮮を日本かすることによって、欧米と日本との関係を、日本と朝鮮との関係にずらして再現しようとした。(P22)

朝鮮の特異な『植民地化』は、自己同一性のあらわれだったのか。


日本の本当の戦争目的が現実的、合理的打算よりはむしろ、危うくされた自己同一性の回復という精神的なものにあったのだから、精神主義は必然ななりゆきであった。(P26)

悲壮な精神主義は、現実を直視できなかったからであった。現実をみれば、アメリカとの戦力差は明らかで、なにも原爆を落とされるまで戦い抜くことはなかったのではないか。


自分のある感情なり意思なりを自分で「誠意」と判定するには、相当の得意勝手さが必要である。(P43)

自分で「誠意」と思っているものは、誠意ではない。誠意とは努力と同じように他者が判断する者だからだ。


親の保護とは、いいかえれば現実との遮断である。(P52)

この時期の全知全能的勘違いによって、ナルシズムが形成される。


現実原則と快楽原則とのこの対立と分裂は、人類だけが直面する悲劇であり、動物においては、現実への適応と快感の追求とのあいだに矛盾はない。(P54)

人間が動物として壊れているという考え方は新しい!
おそらく、欧米人には無理な考え方だろう。


エスの幻想は私的幻想である。エスの幻想の世界に住んでいるかぎり、各人のあいだにいかなるつながりもあり得ない。(P56)

誰かとの『つながり』なんてものは本質的には思い違いなのではないだろうか?


かつては本能に支えられていた人間のつながりは、今や共同幻想に支えられることになった。(P57)

マトリクスでは、バーチャル空間が完全な共同幻想になっている世界を描いた映画だったが、もし現実と見分けのつかないようなバーチャル空間だったのなら、人類を助ける必要はあるのだろうか?


二人の関係を支える共同幻想は、その関係が二人だけの限られた空間に閉じ込められたとき、崩壊する。(P58)

集団を拡大しなければ崩壊してしまう関係性だから、制度や家、血で縛る必要がある。
しかし、現代においてはこの制度も崩壊してきている。


共同幻想は、それを信じている集団の観点からは万古不易の普遍的真理であり、一つの普遍的真理は、それと矛盾する他の普遍的真理の存在を許さない。(P61)

あらゆる争いがコレで説明できる。


個人は残りのエスをも共同化しようとするであろう。その共同化の努力のもっとも過激なもののうち、成功したものが革命であり、もっとも無残な形で失敗したものが発狂であろう(P74)

私的幻想の共同化、すなわちエゴの押しつけというものが革命家のしたいことであり、自分のための革命なのである。


アメリカ人が他民族の大量虐殺というその痼疾的反復強迫をやめるようになるためには、原住民の大量虐殺の経験を正当化するのをやめなければならない。(P78)

過去の歴史が正当化されていると、されにコレを強化するために行動を繰り返す。


「真の人間性に基づいた教育」という考え方が前提としているような「真の人間性」なるものは存在しない。

人間性も共同幻想といして築き上げたもので、その幻想への適応能力を教えているのが学校教育である。


聖なる絶対者は、要するに虚構であり、虚構を維持するためには、多くのものを排除し、抑圧しなければならない

日本で天皇制の批判が表面化しないのも神様を批判できないことと同じ。


神話の神々は、近親相姦、親殺し、子捨て、裏切り、詐欺、密通、そのほかありとあらゆることをやる。(P94)

人々の抑圧は、自分と無関係なところで噴出す。


人間の性生活は、まず不能者としてはじまる。これが重要な点である。(P109)

不能による抑圧から、歪み壊れてしまう。


人間のエロスに関して、自然な姿など、そもそもどこにも存在していない。(P140)


誰にも迷惑をかけないエロスならば、許容してもいいと思う。
その代わり、性的な趣味がバレたときに、キモいと言われることは覚悟しなければならない。


東西古今のポルノグラフィは、そのための努力の一環と見ることができよう。そこに描かれているのは、はじめからおわりまで幻想の性であって、現実の性には、描くに値するようなことは何もないのである。(P168)

実際、モザイクがないとセックスなんてグロい。
モザイクは風紀を守っているのではなく、むしろ見る側を守っているのだ。


女は、はじめは「抵抗」し、徐々にそれを弱めることによって男の克服の努力に協力する。女が初めから、股を広げて「はいどうぞ。あんた不能じゃないんでしょ。しっかりしてよ」と言えば、たいていの男が不能に陥るであろう。(P170)

怖すぎる…。


愛するとは、愛しているかのごとくふるまうことであり、真実の恋愛と偽られた恋愛とのあいだには何の差異もない。(P182)

恋愛とは自分を騙す、あるいは相手を騙す、またはその両方なのかもしれない。


人間の親にとって、育児は本質的に無理な負担なのである。(P189)

人間の育児は負担が大きすぎる。約二〇年のあいだ子育てをするわけだが、共同幻想の思想によって犠牲を受け入れている。


動物が自殺しないのは、幻想我と現実我の分裂がないからである。(P307)

幻想我と現実我の分裂によって、人間は想像力を手に入れたのではないか?


幻想我と同一視し、それを投影する対象は、別に人間である必要はない。むしろ、なま身の人間でない方が、失敗の危険が少ないし、相手にも迷惑をかけないですむ。(P310)

うまい具合に現代の「萌え文化」を説明していると思う。


「嫌悪する自分」とは、いわば、架空の自分であり、架空の自分に発するものであるがゆえに自己嫌悪は、現実の自分に対して影響力をもち得ないのである。(P321)

自己嫌悪とは、ナルシズムの一種なのだ。


自己嫌悪は一種の免罪符である。自己嫌悪は、嫌悪された行為の再発を阻止するどころか、促進するのである。(P324)

自分に対する偽善によって、自己を正当化するのが、自己健をの正体。




総合評価★★★


前半2/3は★★★★★、ですが、後半1/3が★です。

規制の概念とは全く逆方向から論理展開していくので面白い。
文化を共同幻想と考えると、幻想なんだから、通念などと言うものの危うさがわかります。
前半2/3は面白いですが、残りの後半1/3はあまり読むに値しないように思います。
著者の生い立ちとか、自作の詩とかが書いてあります。
よっぽどのファンじゃないときついです。
買ったら、切り取って捨ててしまってもいいくらいです。
でも、前半2/3だけでも読む価値はあります。


関連記事

category: 読書メモ

thread: 読書メモ

janre: 本・雑誌

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://tieno.blog79.fc2.com/tb.php/421-b3d8c1e1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

読書中

RSSフィード

メールフォーム

フリーエリア

最近の記事

月別アーカイブ

カテゴリー

ブログ全記事表示

ベストセラー

買って良かったもの

最近のお気に入り

読了本

▲ Pagetop